海上シルクルートの研究
シルクロード(絹の道)と呼ばれるかつてユーラシア大陸の内陸を結ぶ東西の交易路の存在が注目されてきた。モノやヒトの移動である交易は、陸上輸送だけで成り立っていたのか?海上の交易ネットワークはどの様な発展を遂げたのか?
シルクロードという用語は、19世紀ドイツの地理学者フェルデイナンド・リフィトフォーヘン(Ferdinand von Richtofen)によって東西アジアの陸上路ネットワークの用語として初めて使われる。のち1903年にエドゥアール・シャヴァンヌ(Edouard Chavannes)によって、その概念が、特にインド沿岸の港湾都市も含む海上路として拡張された。
陸の道(ロード)、海上路(ルート)、Maritime Silk Route=海のシルクルート
国内では、貿易陶磁器研究者らが、東アジアから東南アジア、インド洋地域、アフリカまで伸びていた陶磁器の交易ネットワーク、「海の陶磁器の路」の存在に着目してきた。
海上シルクルートの沈没船遺跡研究
かつて、唐代の海上シルクルートの拠点であった広州には、南海舶、番舶、西南夷舶、波斯舶、崑崙舶、崑崙乘舶、西域舶、蠻舶、海舶、南蕃海舶、波羅門舶、師子國舶、外國舶などの交易船が訪れた。
東南アジア海域で発掘された船体考古資料(沈没船遺跡で確認される船体残骸)からは、
- インド洋系交易船
- 東南アジア在来系交易船
の2系統の海上シルクルートの交易船が確認できる。なかでも、8-9世紀のブリトゥン沈没船は、波斯人(ペルシア人)・大食人(アラブ人)らが乗船したインド洋系造船技術で建造された交易船であったと考えられている。1990年代インドネシア人漁夫がナマコ漁の最中、ブリトゥン島沖外海で陶磁器を発見。1998年からドイツのサルベージ会社によってサルベージが行われた。6万点とも言われる長沙窯系陶磁器を中心とした出土遺物は、良好な保存状態であったが、引き揚げた遺物が売却されたことから、考古学界から激しい批判を招いた。
沈没船と港市研究プロジェクト:東南アジア在来系交易船
東南アジアでは、崑崙舶と呼ばれる在来系の航洋船が、古代海上路で活躍したことが知られる。東南アジア航海民が操った船の実態が、船体考古資料より明らかになりつつある。
ベトナム・クアンガイ省で確認されたチャウタン(Chau Tan)沈没船は、東南アジア航海民の交易船であった可能性が高い。その存在は、故西村昌也(ベトナム考古学)によって学界に報告された。船材と積荷含む全ての遺物は、考古学的調査によって引き揚げられたものではないが、唐代アラブ・ペルシア商船であるブリトゥン沈没船と比較される資料である。研究は、西野範子、青山亨、野上建紀、田中克子、Le Thi Lien(ベトナム考古学院)らによって引き継がれ、多量の墨書を持つ陶磁器類、東南アジア在来系の造船技術が確認される船材の研究が進んでいる。
クアンガイ省ビンソン湾の沖では、海底サルベージが頻繁に行われ、沈没船遺跡由来の遺物が数多く引き揚げられている。引き揚げられた遺物にはブリトゥン沈没船で確認されたペルシア・アラブ系海商船で使用されたアンカーも含まれる。海域には、数隻の船が沈没しているとされこれまで唐代-清代までの陶磁器、オランダ東インド会社が扱った陶磁器が、多量に引き揚げられている。
チャンパーのシタダル(城郭都市)が河口近くに所在、交易拠点となった外港が沖合の島に確認されるなど、東南アジアの港市研究において重要な地域である。沈没船遺跡遺跡は、点としてこれらに繋がる。2019年度から、一帯の海事・水中考古学調査、引き揚げ遺物の保存の研究が新たに進んでいる。