マニラ・ガレオン交易(スペイン植民地間太平洋交易)
Manila Galleon Trades (1565-1815)
マニラ・ガレオン船は、スペイン植民地であるマニラとアカプルコ間を年1~2回往復していた定期交易船である。アジア交易進出の橋堡頭をフィリピンに定めたスペインは、1565年、アンドレス・デ・ウルダネタの航海指南下のサンパブロ号で、黒潮・季節風を利用しアカプルコに帰航する航海ルートを発券する。以後、太平洋を舞台に250年以上に及ぶ海上交易が展開する。アメリカ大陸で採掘された銀がアジアに流入、アジア産の交易品がアメリカ大陸・ヨーロッパへと渡った。既にアジア海域では、大型化した交易船の活躍により、「海上商業の時代」(Age of Maritime Commerce)を迎えていたが、この海上地域交易網が、太平洋交易と結びつき、人類史において、初の地球規模での海上交易が展開する時代に入っていった。
マニラ・ガレオン船の長距離航海は過酷であり、航海ルートに位置する環太平洋の国の沿岸沖に沈んだ船も多数にのぼる。フィリピン諸島海域、北マリアナ諸島海域、北米・中米の西岸には、マニラ・ガレオン沈没船遺跡が発見されているほか、海岸で遺物が確認されてきた。その多くは、学術目的のためではなく、積載された交易品のサルベージによって利益をあげることを目的としたものであった。
マニラ・ガレオン沈没船の考古学・歴史学:サンフランシスコ号の沈没
日本の太平洋岸沖は、マニラ・ガレオン船の航海ルートとなっており、マニラ・ガレオン船団の1隻であるサンフランシスコ号が、現在の千葉県御宿町岩和田村で沈没した。マニラを出港した同船は、北マリアナ諸島で 嵐に遭遇、日本沿岸上陸を目指し、北上中、1609年9月30日に、当時の上総岩和田村沖で座礁・沈没した。50名以上の乗組員が溺死したが、乗員370名程が岩和田に上陸を果たしたとされる。岩和田村に滞在した生存者のなかには、フィリピン前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・アルベロッサは、徳川家康との親交があり、その縁を頼り、帰国を願い出て、その間にはスペインとの通商の可能性も探った。帰航には、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が建造を指揮した国内初の西洋式帆船が用いられ、サンブエナベントゥーラ号の名で無事帰還を果たす。家康の帰還処理に感謝の意を表すために、スペイン国王は返礼使節を日本に派遣、紆余曲折を経て返礼使節は伊達政宗の庇護を受けて、遣欧使節団とともにメキシコに帰ることとなった。
座礁・沈没の運命を迎えたサンフランシスコ号は、
始まりの航海、始まりの船、
として歴史に記録される。
サンフランシスコ号は、現在の岩和田沖のどこに座礁・沈没したのか、正確には位置は、特定されておらず、遺存状況は不明である。2016年から3ヶ年計画でのサンフランシスコ号水中考古学の基礎調査が開始された。その内容は、
‐ 岩和田沖の精密な海底地形記録、
‐ 金属製船体関連遺物(鉄製の錨など)の検出の磁気探査、
‐ 潜水調査の実施
である。遺物の発見には至っていないが、調査が継続されている。